昭和44年06月30日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」信心はわが心から練り出されて来ませんと、練り出されたもんでないと自分のものにはなりません。そしてねあのう話を聞いて助かる道とこう仰る訳ですが、なぜ話を聞いて助かるかというと、話というのは、いわゆるお道でいう話というのは、より本当な事をより本当な信心を分からせて下さる。いわばヒントを与えて下さる様なもんですよね。ですから話を聞いて助かるのです。話を聞いて自分の心に成る程と。
またはぁこれは自分の生き方、間違っておったな浅はかであったなとね、そこからその練り出される訳なんですよね。だから練り出すということはね、やはりその事をね、こう明けても暮れても、そのう思い続けると言った様なものが大事ですね。そこから本然としたものが、まぁひとつの宗教的悟りと言った様なものがですね、それを願い思い続けて、心に練っていっておるところからです、本当そのうこれだったと、分からせて頂く時があるのですよ。
私もここ二、三日、練っておる事があるんですけれどもね、御承知のように私最近非常にお水を頂くのです。自分でもびっくりする位頂く。しかもそれがもうジガジガする、凍っておる様なそのもんでなからないかん。ですからもうジュース、サイダー、かき氷はもちろんそのうお水が多いですけれども、もうそれはもう驚くばかりですね。でそんな事をお願いさせて頂いとりましたらね、あのう冷蔵庫へあのう入れてあります氷がですね、私の方のはすぐ凍るあのう所が有るんですよ。
そこはもうサイダーでもビールでもすぐ凍ってしまうんですよ。油断すると。もうガチガチに中が凍ってしまう。だから急に冷やす時そこにもっていくとすぐだから冷えるわけですね。いわゆる冷凍室がある訳です、とにかく冷蔵庫の中に。ちょうどそこであのう冷やしたようなサイダーの様なそれがですね。あのう上の方だけこうやって氷が有る。凍りかかっているんですね。そのう私が頂こうと思うてもそのうサイダーが凍ったようになっておるのをですね。
それをちょっと見たところがその口がね、ちょうどあのう栓を抜く時に無理しますと口が取れてこう欠げてしまうでしょう。こう割れてしまうえしょその口が割れてるんですよ。はぁこりゃこのまま口飲みどもしよるとこりゃ危ない。同時にこうやって口飲みしても少しそのう凍りかかっておりますから、なかなか出が悪い。そしたらねストローで飲んだらいいということを頂くのです。
危ないと思ったら次にどストローで飲んだらですね、ストローで飲んだらしかし上が氷かかっておっても中の凍ってないとこだけが出て来る訳ですから。ははぁこりゃ私が今ろくがを頂きょる事はこりゃ少しだと、けれどもストローで飲めばいいんだと、ストローということはどういう意味の事だろうかと、私はここ二、三日、思い続けておる事がありますす。ストローということはどういうことであろうか。もちろんそれを実際ストローで飲むということじゃない。
ことにねそのストローというのは信心で神様はどういうふうなことであろうかと、心で思い心で練り続けておる訳でございますがね。まぁだ分からんでおる。ですから分からない事をあのう分からない事をすぐ教えてもらうということも有り難いですけれども、それをやはり練って練って分からせて頂くものでないと、本当に身に付きません。また本当の喜びもないです。こりゃ皆さんがあのう学校にね通われる時に、あのう算数なんかに難しい算数なんかに取り組む時に、そりゃ教えて貰えばですねすぐ分かること。
参考書を見ればすぐ分かる事だけれども、それでは自分の力にならんというので、それを一生懸命そのうあぁでもないこうでもないと、そのう本当な答えを求めて勉強致しますでしょう。そして自分の頭で自分の力で解き得た時、もうとにかく嬉しいだけではなくて、もうそれなら必ず自分のものになるです。苦労が伴うとりますからね。ように信心もやっぱりそれです。話を聞いて助かる道と仰る事は、今日この御理解四十一節で頂きますように、こう次にはね信心は話を聞くだけが能ではないと言うておられる。
話を聞くだぁけで、耳だけが肥えていくという人達に対する。こりゃ御理解だ思うですよね。ほいでもう話を聞くそうにゃ聞き込んでおりますから、どげん詳しい事でも知っとる。金光様の御信心はどんな風にでもまぁ説明が出来る。教えなんかはもう空暗記しておる。というてそのうひとつも信心が自分のものになっていない、血肉になっていない人達が多いから、次にこういう御理解を下さったんだと思うんですよね。お前やぁ毎日毎来て話ばっかり聞きょるばってんいっちょん行じょらんじゃないかと。
おかげを受けられんじゃないかとそんな事では。少しはちった自分の心からも練り出さなきゃいけん。たまにゃ今日の御理解頂いて、この様な事が悟らせてもろうた分からして貰いましたと、言えるようにならなければと言う様な場合に、これはこの御理解を頂いたのでのであろうと思うのです。信心は話を聞くだけが能ではない。我が心からも練り出すがよい。そこでそのまぁ様々に信心の工夫が有る。または皆さんが一生懸命に集うて共励をなさる様に、共励会と言った様なものが。
そこに生き生きとあのう共励会に行ってこういう事が分からせて貰うたと言う様な事になって、おかげを受ける訳です。そういう意味合いで共励会は大事ですね。「わが心からも練り出せ」こりゃまぁ私の最近の私の信心の最高のところですね。これは今始まった事じゃないのですけれども、それをいよいよ強く思うのですけれども、もう本当に心の底からですね思う事はね。御心に添いたい御心に添いたいということです。いわば神様の心に添いたい神様の心に添いたい。
これはまぁそのう私がこうやってまぁ現在のような信心をさせてもらい、人が助かるようになってからこの方、これは思い続けておる事ですけれども、もうそれをいよいよ強く思うんです。そういう例えばもう本気で神様の心に添いたいというところに、なら本気で神様のお心本心というものを、分からせて頂きたいということになる訳です。そこに信心の追求がある訳ですね。何故かというともう神様のお心は、あまりにも大きくあまりにも深いもんですからね。
神様は私にここを求めてござると思うておったことが、もう次にはもっと深い所へこう私に誘導して下さる様な所があるんです。いわば親の心というものは這えば立て、立てば歩めというのが親心であるようですね。一歩でも自分の方へ引き寄せたいという、その神の願いがそれぞれに掛けられておる。これは私だけじゃない皆んなに掛けられておりますから、そこのところを一歩一歩前進して、そのう一歩でも歩き習わせて下さろうとする親心に添うために日々信心がある訳ですね。
ですからここだとかこれで良いとかいうことは信心では有り得ないです。その人にゃ本当かも知れないけれども、もうもっと信心の高度な人にゃもうそりゃ本当じゃないですよ。かというてまたその人よりも信心が未熟である場合には、そんな事があるもんかというくらいです。やはり自分が現在本当と思っておることを、本気で行じさせてもろうてね、そこからまた次のいわばより本当なところを、追求して行くという信心がね。だからそのうこれだけは間違いないのはですね。
今申しますように御心に添いたい御心に添いたいという一念を燃やすと。そこからまぁ私の信心を振り返ってみますとですたいね、様々な信心が有りましたがね、もうとにかく一にも神様、二にも神様、三にも神様というですね。もう信、第一主義でいったということ。信心の事を第一にとって、いわば一にも修行、二にも修行、三にも修行で、いわゆる神様に打ち向かうと。いわばいうなら今から考えてみるとですねぇ、もうガムシャラでもあったが、ものすごい信心振りだったなと自分でも思うくらいですね。
その時分に大いに人にやっぱり凝りを積ませたりしとりますよね。それが段々まぁ穏やかになって参りましてから、そのう成り行きを大事に成り行きを大切にと言った様な事を、私の信心のま生命とさせて頂いた。そして本当に成り行きそのものを、本気で大事にして参りました。大切にさせて頂きました。その成り行きそのものが、神様のお働きでありね、私共に神様が本気で求め給う修行だというふうに、そんおう成り行きを尊ばしてもらい大事にさせてもろうた。
神様を尊ぶということは、成り行きを尊ぶことが神様を尊ぶことだというふうに、まぁ私自身それを思い皆さんにも聞いてもらった。そんならそれは嘘ではない。限りなく美しくなりましょうと、と言う様な、椛目、合楽の時代にですよね、限りなく美しくなるろうということが、合言葉のように言われた時代が有りましたね。それもみんな神様の心に添いたい添いたいという一念が、そのような信心にがいわゆる展開して来た訳なんです。より明るくよりにこやかにと、例えば今年のスローガンであります。
その信心もやはりよりにこやかであると言う事が、より明るくしておると言う事がです、神様のお心に添う事だと、これは信心させて貰う所から、その様な事になって来た訳でございますよね。私が最近口を開けば申します事はね、いわば天地の心を心として、いわゆる神様のお心が少し分かって来た。いわば天地の心が分かって来た。いうなら天地の心とはどう言う事かとね、天の恵み又は地の利と言った様な事が、実感的に分かってきた。天地の心を知る事が、神の心を知る事だと言う風に分かって来た。
そんなら天地はどうあられておるか、天地の心はどうであるかというところに、なら最近私が言う、口を開けば言うね、黙って受けて黙って与えるということ。黙って受けるということが大地の心なら、黙って与えるところに天の心があると、私は最近そう言う風に思っておる。そしていよいよ間違いない事であるということが分からせてもらうことは、神様の働きの間違いなさ、神様のお力の偉大さ。神様の働きの間違いなさね、それを本当にその気になっておかげを頂きゃ、凄まじいまでにそのう天地の働きが。
私自身の上に始まるということである。これは私の心からいわば練り出されていきよるものです。どうでしょうか話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せと。そこで例えばなるほどこういう生き方も喜んで下さるけれども、もっとこういう神様がお喜び下さる生き方があるんだということを、追求していくことを信心だと言う風に思う。今日は恒例の大祓式。ここでは悪病予防交通安全大祈願祭と銘打って、今日一時から一時からでしょ。一時から祭典がございます訳です。
段々準備も昨日から皆さん掛ってなさっておられます。それが例えばここの大祓式がですね、ここが教会にならせて頂きました年から始めておりますから、もう今年で三回大祓式が行われる事になる訳です。一番初めいや去年一昨年の大祓式にはですね、例えばお祓いを受けると。その式に参加する。お祓いを受けたが最後ですね。もう全ての災難難儀というものが祓われると、までおうたに示して下さいましたですね。祓いさえすりゃおかげになるということでしたよ。
本当にあの時に沢山の車をの、お祓いさせて頂いたがね、本当にほんなこつじゃあるじゃろうかと、言う位に無事故でしたですね、皆んな沢山の車が。ここで祓うて頂いたと、実際はここに来ちゃなくても、なら祓つ物によって祓うて頂いたと。という事によって言わば本当に、こんな奇跡は又となかろうかと思う。もうないでしょうねまたとは。いかに祓うという事だけでも、この位な力があるのだということを、示して下さった感じでしたですよね。
それがなら昨年になりますとどういうことになるかというとですね、今度はいわば神様が一年間の間に信心のいわゆる誘導、いわば這えば立て立てば歩めというその働きを昨年は感じました。「今あるを嬉しといやび奉りなば、家に不幸の起こる事なし」と言った様な事でしたでしょう。いやび奉るということは、お礼を申し上げるということなんです。この心があれば絶対不幸の、難儀な事が起こって来る筈がないぞと。もういわば一昨年は違う。一昨年は祓うて頂いただけで災難が除けられたという年であった。
けれどもそういうことだけでは、いわば人間の向上というものはないのです。参ってお頼みさえすりゃ儲かる。頼んどきさえすりゃ商売が繁盛するねそういう時代もある。けれどもそういう時代から一年後にはです、もうその事の有り難さがしみじみ分かる様になっておらなければならない。今日今私がここにあるということが有り難い。目が覚めたということが有り難い。今ここに車に乗らせて頂こうとしておる自分自身が有り難い。自動車を拝まなければおられない、と言う様な心が求められておる訳ですよね。
一昨年の大祓式からね、昨年いわゆる今日迄ですの、大祓一年の間にどのくらいここで事故があったか分からんくらいに事故があっております。いかにお互いの心の中にですね、信心は話を聞くだけが能ではないと、わが心からも練り出す心が、私は怠慢になっておるかという事を、本当にここに悟らにゃいけんと思います。けれどもここにその思わにゃならん事は、例えば祓うて頂くというだけでも、なら一昨年のようなその神様の働きが有る事だけは間違いない事ですよね。
そしてそれからお互いの信心が向上して進んで参りますとです。そこに求められるのが神様の喜びね、人間の心の中から沸いて来る感謝の心。今あるを嬉しといやび奉りなば、どんなに苦しいというてもです、どんなに例えば頭が痛い熱があるというてもです、熱があるということは生きておる印だからと思うたら、有り難うなるという訳なんです。頭が痛かってもお礼を申し上げよという事なんです。いやお礼を申し上げなければ嘘なんだ。そのその場合難儀を感じるというても、生きておるからこそ難儀を感じるだと。
もし死んでおったら難儀も何も感じん、暑いも寒いも感じない。してみるとそこから先ずそこからお礼を申し上げねばならんなぁと、いやびを申す心が育てられるということを、さぁ這えば立てと神様が求めてござる。今日はどう言う風にそれを頂くか分かりませんけれどもね、それからもう一段神様は後ろへだってござるような感じがする。さぁまぁいちょここまで来いと言うておられる。
今日の一時の夏季修行の御祈念が丁度一緒になりますから、併せて頂きたいと思うて、今日はあのうどう言う所を頂く事になっとったかな思うたら、三十日は「人の身が大事か我が身が大事か、人も我が身も皆人」と言う事になっとるですね。ははぁ今日はここのところだなぁと私は思ったんです。例えばなら交通事故なら交通事故と言った様な事でも、人の身が大事か我が身が大事か、人も我が身も皆人と言う事になったら、とても飲酒運転だん出来やしません。スピードの出し過ぎなんか出来やしませんです。
自分が死ぬだけじゃなかもんじゃから。自分が怪我するだけじゃ済まんのだから、自分が痛いなら人も痛いのだから。そういういわば引き上げられたというか、私は神心と言う様なものを、神様は求め給うのであろうと今日私は思うた。人に迷惑を掛けるという事がどんなに相済まん事か、痛い思いをさせる難儀な思いをさせる、人の運命を一遍に変えてしまうような、自分だけならともかく人までそうなってしまう。人の身が大事か我が身が大事か、人も我が身も皆人だと言われる様な所をですね。
まぁあ頂かせて下さるんじゃなかろうかと思うております。そのう例えば今年で三回続けられる大祓式においてもです、そのように神様は話を聞くだけが能じゃない、参って来るだけが能じゃない、ただお祓いを受けるだけが能じゃない、と言う風にです段々信心の本当な方へ本当ところへとこう神、様が誘導して下さる。ヒントをその時その時に与えておって下さるのですからね。そこでお互いがそれを分からせてもらい悟らせてもらい、それを本気で行じさせてもらい、わが心から練り出すところの喜び。
翻然として分からせてもらういわば信心、それが信心の血になり肉にならせてもろうて、おかげを頂いてそんならその根底になるものは、私がそれをいよいよ強く思うというですね、神様の御心にね添いたいという願いを、いよいよ一途に進めていく以外にゃないということになります。これだけはいつの場合どんな場合でも持たなきゃいけませんよね。御心に添いたい御心に添いたいと、明けても暮れてもその事を思うのですからね。こうしょうと思うこれは神様がお嘆きになるだろうね。
こういう心の使い方では、神様がお嫌いになるだろうと、いうことになって来る訳なんですね。御心に添いたい御心に添いたい、そしてそれは信心の程度程度に応じてです、御心に添いたいは大変相違が有ります。だから誰の真似でなからにゃならんというものはありません。私のここ二十年間なら二十年間の間でもです、大きく区切って唯今申しますような、一にも神様、二にも神様と言う様な生き方から、だんだん信心の展開というものが感じられますように、おかげを頂いていかなきゃならん。
神様を自分の心に添わせよう、神様を自分の思うように使おうというのは、もうそれのもういっちょ下だと思うですね。いうなら祓うてもろうただけで、もう今年はお祓いをしてもろうたけんでもううちの車は大丈夫、もううちの者んな病気はせんという考え方。けれどもそれも決して嘘ではないということです。神様はそのくらいな力働きは持ってござるということです。けれどもそれだけでは人間の本当の幸せはないというところからね、そこが分かるようになったら次にゃ、もう這えば立てと言うてござるところ。
次には歩めと言うてござる所をです、ひとつ悟らせて貰うて、本気で練り出す信心に精進させて貰わなきゃなりません。信心は話を聞くだけが能ではない、わが心からも練り出すがよい。その練り出されたものこそが自分のもの。それを私は今日の例えば大祓式に併せてですね、大祓式の例えば三年間の歩みと言った様なものからでも、そこの所の御神意がよおく伺えるように思うのでございます。お互い果たして御心に添いたい添いたいという思いがね、どれ程あるかを先ずいっちょ思ってみなけりゃいけません。
そしてそんならそういう心を土台にしてですたい、どういうふうに自分がなら変わっていこうとしておるかという事を分からせてもろうてね、御教えとはそういういわば話を聞いて助かる道というのは、そういう分からせてもらうね悟らせてもらう、いわばヒントを頂くのだ。そこからいよいよ自分のものが生まれて来なければならん。信心というのはからどれが本当でどれが嘘ということは言えません。ですから信心の程度程度に応じてです、いわばおかげ受けられるのでございますから。
だからそこ迄で停滞しておったんではならん。そこに足踏み状態であってはならん。いつまでもはいはいばぁっかりしとたんでは詰まらん。よちよち歩きだけがいつも出来とるじゃいけん。もうそれで良いということはない。神様はまぁだ限りなく私共に求め給う事であろう。又それを願いとして下さってある事であろう。その願いに応え奉る所に、信心のいわゆる限りない精進というのが感じられます。ですから精進その事がいよいよ有り難いと分からせてもろうて、おかげを受けていかねばならんと思うのですね。
どうぞ。